上げる
理由はわからないが、
この人に会うとなぜか気分が上がる、
やる気が出る、そういう人がいる。
職場にもいる。
パルクールの先生もそう。
そういう人たちはみんな共通して、元気だ。
そして楽しそうだし、自信にあふれている。
わたしという存在を、受け入れてますよ
そんな感じで言葉や表情をこちらにくれる。
実際に、「今日会えて良かった」との言葉をくれたことも、ある。
そんなこと、なかなか言えないぜ?
先日、勤務先で講習があった。
コミュニケーション、おもにコーチングの内容。
いかに会話の中から、相手のやる気や能力を引き出すか、という技術の話。
聞き上手になろう、なぜなら人はみんな受け入れてほしいからである、そのためのノウハウ。
コツは、聞きに徹して、否定をしないことだそうだ。
たしかに、聞いてくれる人にはいろいろ話してしまうし、心を開いてしまう気がする。
だけども、聞くのがただうまいだけの人に対して、なんか元気出ちゃう話し方のできる人って、違いはなんなんだろう。
オーラと言ってしまうのはちょっと逃げな気がする。
パルクールの先生方は、言葉だけじゃなくて実践をする。ものすごく実践する。
目の前でぐるんぐるん飛び回る。超人みたいな動きを何事もないようにやってしまう。
ちょっと自分と遠い存在かも、、、
そんな凄い人が、自分を受け入れて話を聞いてくれる。
その嬉しさで昂ぶるのかもしれない。
尊敬する人が、自分を認めて受け入れてくれることの充実感。
ではなぜ尊敬するかといえば、話しがうまいからではなくて(それも素晴らしいスキルだけど!)、行動を見て、その裏の努力や価値観、考え方を感じとっているからだと思う。
おれは人付き合いにずっと苦手意識を持っていて、友達もほとんどいなくて、それでいいやと思って生きてきてしまったけれど、
いまの職場、そしてパルクール教室で出会った素晴らしい方々のおかげで考えが変わりつつある。
おれも会ったら嬉しい人になりたい。
人を元気づける人。
前向きになれる人。
長年続けたウエイトトレーニングは、まったく自分に向き合うだけの時間であったが、
新たに始めたパルクールも含めてこれからは、自分に向き合った時間の分だけ、人を元気つけよう。
強さってのは、そういうことかもしれないね。
立つ
パルクールを習い始めて3、4ヶ月。いろんな技を習ったし、動画でいろいろ見た。
バク転したり壁を跳んだり、いろいろ派手な動きが目に留まる。
だけどそれだけじゃない。
塀とか手すりとか、そういう細い足場にバランス良く「立つ」
地味だけど、とても重要な技術であるらしい。
手すりから手すりへジャンプして、バランス良く着地する。海外の動画なんか観てると、みんな結構な距離、あるいは結構な高さから、塀やブロック、手すりにきれいに着地している。
そもそも「立つ」が出来ないと、成り立たない。すべての基礎と言ってもいいかもしれない。
教室で最初に習ったのが確かこのバランスだったと思う。
500mlのペットボトルくらいの高さの練習用の手すりに、横に立ったり、縦に立ったりを練習する。太さは10cmも無いくらい?縦に立つ時は、端から端まで歩く練習。
これが、できない!
まあみんなそりゃできないよねー、なんて思っていると、他の練習生の人が結構できてたりする。
レッスン内容は毎回変わるので、バランスじゃない日はホッとしたりなんかして
でも何週間ぶりかでまたバランスをやって、そりゃいきなりできるようになってるハズもなく。正直、苦手意識が芽生えてちょっとパルクール嫌かもって思った。
だがここで負けちゃいらんねえ
近所の公園のブランコ、あれを囲む柵が、ちょうど練習の手すりと同じような太さなので、暇を見つけて自主練することにした。高さは自分の太ももくらいで結構落ちたら怖いんだけど、、、!
やってみるもので、ブランコの周りを一周、たまに落ちずに歩けるようになった。柵自体が途切れ途切れなので、途中落ちることになるのだけれど。
手すりに縦に立つのは、いちおうできるようになったことにしよう。
、、、が。
手すりに横に立つのが、もうまったくできない。
出来るかも、って手ごたえがまるで無い。
手すりが高いので、落ちて上っての繰り返しで疲れてしまう。
横に生えてる木の根っこが、結構いい太さだし落ちてもすぐ地面なので危なくもない。よし、これで練習だと乗ってはみるが、できない。夏から秋にかけては蚊に刺されて嫌になって帰る、雨の日は当然休み、そんなことを繰り返したが一向にできない。
ちょっとパルクールほんとに嫌になりそうだった。でも年齢を理由に諦めたりはしない、なんか、意地で。まだ35だし。
先生のツイッターを見てたら、基礎の練習を地道にやってる動画をアップしていた。
それこそ、低いブロックから低いブロックへ、正確にジャンプして、きれいに着地する。それを繰り返す。街中とか公園で。
、、そうじゃん、焦らないで繰り返しやればいいんじゃん
他の先生の動画を見たら、家の中で下駄箱から柱に飛び移っていた。
あ、家の中でやればいいのか!
そうやってアンテナを張っていると、毎日過ごしてる家も練習スポットに見えてくる。
お風呂のへりが結構細くて、水が溜まらないように微妙に坂になっているのを発見。
試しに立ってみると、立てない。
因みに立つ時の足の部分は、指の付け根の関節のところ。フォアフットとか上足底とか言われる。
うちのお風呂は狭いので、ちょっとバランスを崩しても、すぐ壁に手をつける。
何日かやって、だんだんと立てる時間が10秒から調子の良いときは30秒と伸びていく。
教室ではバク転専門の授業もあって、10月くらいからそれも並行して習っていた。
倒立が基礎であるらしく、それをやるのだができない。肩周りが硬く、腕がまっすぐ上に伸びていないらしい。
毎日30秒、壁に腹を向けて倒立の練習をしている。
ある時鏡を見て、姿勢が変わっているのに気づいた。
長年、仕事で一日中机に向かって、肩が内巻きになっていたのだが、この何日かの倒立で、自然に胸を張って、肩がストンと落ちたような姿勢になっていた。ストレッチポールの効果もあったかもしれない。
「なんかいけるかも」
風呂場に入って、お風呂のへりに立ってみた。
久しぶりだったこともあって(サボってました)フラフラおぼつかなかったが、
それでも続けているとコツをなんだか掴めてきた!
お、30秒
あれっ、60秒?
うそ、、、100秒立ったおれ、、、
出来なかったことができるようになるのはやはり楽しい。新しい感覚を掴む楽しさ!
からだの「軸」とはこういうことか?と少しわかったような気分になったりして。
生まれて、立ち始めてから34、5年。毎日してきた「立つ」ということさえ、変わってしまったかもしれない。ほんとうの「立つ」に出会えたかもしれない、、、、
そんな大げさなことさえ頭をよぎった。
パルクールをやるって事は、こういう、感覚を磨くことの小さな一歩一歩の繰り返しなのかもしれない。
自分のやってる「動き」を詳しく知る。
つまり自分を知る。
毎日は、まだまだ面白くなる。
そう信じて、またお風呂のへりに立つ。
好きなもの
子どもの頃から、一人っ子で鍵っ子(いまもそう言うのかな)だったせいか、家にひとりでいる事が多く、
うちにあるマンガの本を繰り返し繰り返し読んでいた。
etc、、、
あまり自分から外に出て、新しく本を買ってこようとはしなかったと思う。
中学生の頃だったか、ブルースリーというものに衝撃を受け、VHSをそれこそまた繰り返し繰り返し観た。
ジャッキーチェンも然り。当然のようにリーリンチェイにも手を伸ばした。
そのまま大学から専門学校に行き、就職するわけだが、
同時に世の中ではインターネットというものがどんどん普及し、YouTubeなるものが登場する。
好きなものがいつでもいくらでも観られるようになれば、当然また繰り返し繰り返し、繰り返し観るのである。
上記のカンフーヒーロー達の映画はもちろんのこと、
ごっつのコント、
シティボーイズのコント、
サンドウィッチマンのコント、
デイリーポータルZを知ってからは
むかない安藤、
大北栄人氏の一連の独創的な笑い、
森翔太氏の動画、
森山直太朗氏の歌とおしゃべり、
などなど。
からだやこころが、元気が無くなったとき
自然とこれら好きなものに手が伸びる。
元気なときは意識の上に上ってこないが、
仕事や人間関係に疲れたとき、
気がつくと検索窓にはいつも同じようなことを入力してるのである。
正直、これでいいのか俺?と焦る。
成長してないような気がして焦る。
ふだんは自分をもっと高めたい、広げたいと思っている。
「これをするのがおれ」「これをしないのが自分」と、
枠を決めてしまうのが恐ろしく、興味を持ったことにはなるべく飛び込むようにしている。30歳を過ぎてからは特にその傾向が強くなったと思う。
昔から運動が苦手でコンプレックスとなっていたが、それを跳ね除けるべくパルクール教室に通いはじめた。それが35歳の今年の出来事だから、我ながら無謀というか、果敢というか。
服を買うとき、音楽を聴くときなど、「選択」に迫られるときはなるべく今までの自分に無いほうを選ぶ。髪を切るときも、美容師さんのセンスに完全に身を委ねて、なるべく奇抜な形にしてもらっている。
そんな風に生きてるつもりだが、なんとなく自分という輪郭はどうしても形作られる。
やはり好きなものを身の回りに置きたいし、嫌いなものは視界に入れたくない。
子どもの頃から好きなものは何年経っても好きだし、
目新しい情報を求めて、それを手にしたつもりでも、結局は好きなものの派生だったりして。根本的にまったく新しい興味というものは湧いてきてないかもしれない。
好き嫌いを選ぶのは自由なことと思っていたが、
おれは好き嫌いに縛られているんじゃないか?
養老孟司氏の「バカの壁」はそんな話だったような気がするが余り覚えていない。
だんだん年もとり、からだもこころも動きが鈍くなるような、そんな恐れ、焦り。
つまり
おれ、というものが凝り固まっていくのを
日々じんわりと恐れている。